② 岩倉・上高野エリア 豊かな自然と調和の庭園美・静寂で厳かな小野の里と中世格式の庭園美


■崇道神社 〜新緑の季節が待ち遠しい参道〜

崇道神社の由緒・沿革

崇道神社は奈良末期から平安時代初期の皇族 早良親王をお祀りする。

早良親王は、光仁天皇高野新笠の子で桓武天皇の実弟です。延暦4年に起こった藤原種継暗殺計画の首謀者として捕われ乙訓寺に幽閉された後、淡路に流される途中無実を主張して絶食死しました。その後、桓武天皇の近親者の死が続き、都には悪疫が流行したため、早良親王の祟りと噂されその怨念を鎮めるために延暦19年、崇道天皇と追号し

墓を現在の八島陵へ改葬しました。

創祀年代は不明ですが、この地が若狭街道の交通の要である事、都の鬼門に当たることなどから、貞観年間(859877)以降と推定されます。他に藤森神社・上御霊神社にも崇道天皇が祀られていますが、崇道天皇のみを祭神とするのは、この崇道神社のみです。

 

□伊多太神社由緒

伊多太神社は洛北唯一の古い神社で、祭神伊多太神は元当村の氏神でした。

湧き水の神であり農耕の神であり、都丑寅に当り小野神社二座(祭神 小野妹子、天武天皇重臣小野毛人 677年)と共に王城鎮護神として、延喜5年延喜式内社となりました。伊多太は湯立の訛で社前には池ノ内、市川、大湯出、等良田がありました。

往古の伊多太神社の神事(湯立儀)は出雲系同様の神事で、巫女は宮中に奉仕しました。近世は学問の神として都人多数に崇奉されています。明治417月崇道神社に合祀されました。

『延喜式』とは延喜5年(9078月醍醐天皇の命により編纂に着手し、延長5年(927)に奏進されましたが、施行は遅れ約40年後の康保4年(967)に施行された古代の法典です。「式」とは法律規範の意味で、全部で50巻からなりその巻910が神名式、そこに記載されている神社を「式内社」と称します。

それは、当時の官社(元慶年間877885頃決定されたと推定)を国郡別に列記したもので、一般に「神名帳」といわれている。記載された神社は官幣・国幣のみで外の神社の記載が無く当時の社格を示しております。

山城は122座で第7位、京都市内は49座の内上高野は出雲高野は出雲高野神社、出雲井於、伊多太、小野2座の45座が記載されています。

 

□小野神社

小野氏が創祀した神社で小野氏一族が祀られています。当時は崇道神社の川向にある神社の御旅所、里堂(みこし庫)の南側に2メートル位の石垣の上に明治時代までズンショ(神所あるいは十三祠)の森があり祠が祀られていました。この森が小野神社の跡地ではないかと推測されます。現在崇道神社の境内にある小野神社は、昭和46年地元の人により再建され小野毛人が祀られています。又、毛人の墓は社の左手150メートルの山腹にあります。尚、「募誌」は国宝に指定され博物館で保存されています。

 

年中行事

11日  元旦祭

115日  成人式、勧学祭(入学祈願祭)宮座就任奉告祭

23日  節分祭 古神符焼納祭

217日  祈年祭(田作りの事始め)

54日  宵宮際

55日  例大祭並びに神幸祭

630日  花摘祭(田植え五穀豊穣祈願)

99日  伊多太神社例祭

1017日 真榊祭並びに神忌祭(早良親王の慰霊)小野神社例祭

1123日 新嘗祭並びに新穀感謝祭

125日  小野毛人墓前祭・御火焚祭

1231日 除夜際

※毎月1日月次祭    

住所 左京区上高野西明寺山町34
電話番号  075-722-1486 
開門時間  境内自由 
料金 拝観自由 
駐車場 あり 
アクセス 京都バス「上橋」から徒歩2分、叡山電車 三宅八幡駅から徒歩8分 
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